国産天然水(軟水)のスパークリングウォーターを安く手に入れる

最近炭酸水(スパークリングウォーター)をよく飲みます。炭酸水は
炭酸には血流を良くして食欲を増進して疲労回復効果があるとも
いわれています。個人的には、炭酸のうっすらとした酸味と刺激が
身体をリラックスさせるので好きです。

国産天然水の炭酸水は高いですし、海外産は大体硬水です。好みも
あると思いますが、僕はどちらかといえば軟水が好きなんですよね。
安く手に入るのはクラブソーダです。これは、炭酸の刺激が強いのが
人によっては好きなところなんでしょうかが添加物が入っているんですよね。

また、クラブソーダでも、500MLで100円程度します。

もっと安くおいしい炭酸水を飲みたいということで考えたのが
自分で作る方法です。

下記の2つの製品で自作できます。

ソーダサイフォン
http://allabout.co.jp/house/kitchen/closeup/CU20020731/
エスプーマスパークリング
http://www.espuma-advance.jp/

私が買ったのは、エスプーマスパークリング。
1回1Lは十分に作れますし、構造も簡単なので、手入れや
製造が楽です。

カードリッチは1個90円ほど。安く炭酸水を作れます。
また、数日少しづつ飲んでも炭酸が抜けないところが
いいところですね。炭酸もしっかり入ります。


微炭酸でよければ、もっと安く作る方法としては、
ドライアイスをペットボトルに入れて作る方法が
ありますが、ボトルが破裂したり、キャップが
吹っ飛んで失明したり、大怪我したりする事故が
起きているようなのと、安全度や心情から、
あまりお勧めは出来ませんね。

では!

ドリームジューサー ヒューロムとイキイキ酵素くんパワフルジューサ(おいしいジュース)

こんにちは。お久しぶりです。

最近ジューサを買おうと思っていたのですが、調べてみると
下記の2つがどうも評判がいいみたい。
この2つのジューサーは、手入れが簡単で、絞ったジュースも
今までの摩り下ろして遠心分離するタイプとは全然違うみたいです。

ここら辺の動画を見てみてください。差が歴然です。
http://www.youtube.com/watch?v=EgtIF2SzObI&eurl=http%3A%2F%2Fwww.pika831.com%2Fteisokuzixyu-sa-%2Fikipawazixyu-sa-%2Fpost_37.html&feature=player_embedded
http://www.flower-karen.net/movie/fruit.wmv
http://www.flower-karen.net/movie/hurom.wmv

ドリームジューサー ヒューロム
http://www.flower-karen.net/product01.html
イキイキ酵素くんパワフルジューサー
http://www.e-lifestyle.co.jp/shop/item_SJ200.php
似ているけれど、どちらも韓国の同じ企業が作っているという情報。

少し調べてみると、

こちらが製造している韓国のメーカーのサイトみたい
http://www.hurom.co.kr

米国で二つの製品(製品名は違う)の比較をしている人が
ビデオをUPしています。これがとても分かりやすいので要チェックです。
http://www.youtube.com/watch?v=mvhGv_xmr1w

ネットの情報のみでの推測によると、

1.現在の最新機種:
 イキイキ酵素くんパワフルジューサー
 ※韓国のサイトで取り扱っているデザインを最新と仮定すると
 どうやら上記のようです。
 ただし、少し前まではヒューロムが最新機種でした。
2.サイズ:
 イキイキ酵素くんパワフルジューサーが若干小さめ
 ヒューロムは取っ手が付いている分大きい
3.連続稼働時間や消費電力などの規格:ほぼ同じ
4.コア部品(スクリューやストレーナ):ほぼ同じ
 ヒューロムのジュース受け容器が若干大きいらしい
 他は色が違う程度
5.付属品:
 イキイキ酵素くんパワフルジューサーには、豆腐型が添付
 ただし、ヒューロムは白以外のカラーはストレーナの数が違うので注意!

という感じみたい。

なお、ヒューロムIIという製品も企画されているみたいですが、開発が
遅れているのか、なかなか出てきませんね。

以前は、ヒューロムはかなり高かったんですが、今は、ヒューロムのほうが
イキイキ酵素くんパワフルジューサーより安くなっています。
(7月25日時点で4000円ほど安い)

アメリカとか、韓国の方が価格が安いですが、電圧の規格が
違ったりするので、買うときはちょっと注意が必要。

私はヒューロムのほうを買ってみることにしました。

楽しみです〜。

私と宗教

私の生家は隣が曹洞宗 のお寺で、住職一家はお隣さんでした。

長く、仏教とは無味乾燥なものだと思っていましたが、インドへの4か月の
留学を通じて、ヒンディー教をより深く理解する機会があり、そこから、
仏教についても、新しい視点で見れるようになりました。
お薦めの本は、「フィーリングブッダ」という本です。

ヒンディー教は、「人は人間的成熟という同じ道を目指しているが、
その道は一つでなく、さまざまである。」「神は、唯一無二の存在の
様々な現れである(多神教にして一神教)」という考え方を持っており、
宗派間対立が大変少ない歴史を持っています。哲学的探求の古い歴史が
あり、ギリシャの哲学にも影響を与えています。
「あなたは、肉を食べない事によって、心を清めているんだね。私は
違う方法を取っているけれど、目的は一緒だね」という考えです。
先ほど引用した聖書の内容に通じる考え方ですね。


国際基督教大学に在籍しておりましたが、ここでは、助教授以上の方が
宗門はさまざまであるにせよ、全員キリスト者であり、毎週、社会学者や
理学者が教会で自分自身の信仰生活について話したりしていました。
そこから、キリスト教について、共感する気持ちや知識を得ました。
無教会派の宗教団体の冊子「生命の光」はなかなか面白いので、
最近半年ほど購読させていただいています。
聖書はリビングバイブル版の一つ、「アニメバイブル」が読みやすいので
よく持ち歩きます。近所の教会に行くこともあります。

私の祖父が創価学会に入信しており、私が生まれる前のころ、
勧誘活動で母方の親族の間でいろいろ揉めることがあったようです。
最近、身近な方に創価学会の方がいるので、本を読んでみたところ
牧口の創価教育論はなかなかよく出来ていることを知りました。

創価学会入門は、読んだのですが、心に響きませんでしたね。

子息と揉めてしまって、悲しいことになってしまって
いるようではありますが、 http://toride.org/porry/
トゥインビーとの『21世紀への対話』も読んでみました。

トゥインビーはなかなか面白いです。やはり、塩野七生さんといい、
歴史家はいいですね。
池田さんの話を聞くと、ヒンディー教の伝統を踏まえた仏法が
よく出来ているのはわかりますが、しかし、だからと言って、
仏法で十分、仏法こそが至宝というわけではないでしょう。
バラモン教から仏法とヒンディー教が生まれたという
歴史認識も、きちんと検証したほうがいいとも思います。

なにより、両者の共通認識の通り、哲学は科学の領域外のこと、
あくまで「仮説」であることを忘れず、よい宗教と悪い宗教は、
おそらくあるにせよ、他の宗教やコミュニティの多様性を許容する
優しさを忘れてはならないと思います。
また、特に大きな宗教は、たくさんの宗派があり、また、時代性もあり、
大きく、ひとくくりに良い悪いと総括できませんね。

#ちなみに、科学とそうでないものの違いは、ポパー反証可能性が秀逸です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7

某MLへの投稿から 4


XXXXXです。
今回も少し思っていることを書いてみたいと思います。


■お金
お金の不足が人を変えるのは、おそらく事実でしょう。
一方、自分の使いたいだけ使って、あまりあり、
他の人まで気遣うだけの余裕があれば、収入がいくらであっても、
精神的には、金持ちではないかと思っています。

その意味で、お金持ちになるためには、自分の時給、あるいは
不労収入をあげるだけでなく、未来も含めて、お金を使わない
(けれど、豊かになる)見通しをつけることも大切と思ってます。


■平等への幻想
平等でなければならないというのは、一つの哲学です。
自分がなすべきことをするという哲学もあります。

なるべく平等であるように努力することはよいことと思いますが、
本質的に、世界は平等ではないと思うのです。
自分がなすべきことを、それぞれが行えばよいと思いますし、
金銭的に格差がかどうかの単一の価値観で世界を裁くべきでないと
思います。

その例として、お金のいらない国を見てみましょう。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/okanenoiranaikuni.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

■お金のいらない国
実は、お金のいらない国は、不平等です。働く量も消費する量も
各人均等でなくてよい。そのような不平等さを認めるからこそ、
お金がいらないのだとも思うわけです。

ところで、家族は、「お金のいらない国」といえるのではないでしょうか?

そのような家族の関係は、大家族の精神で、20人〜30人くらいの
コミュニティまでは、広げられるのではという気がします。

コミューンは、長く続いているものは長く続いているように、
規模によっては、「お金のいらない国」の考えは、そんなに無理のないものです。
たとえ、多少のフリーライダーがいても少数であれば問題はないのです。
別に平等である必要はないのですからね。


一方、もののやり取りのみにしか行わない現在の社会にそのまま、この価値観のみを
取り入れれば、あっというまに、社会が壊れてしまいそうです。
対価を意識せず、目的がはっきりしないということは、変革もできないという
ことです。公務員が内側からサービスの向上のための改革を行いずらい理由も
ここにあります。フリーライダーや組織内利益優先の官僚主義の横行をいかに防ぐのか、
つまり、社会構成の多くに対する無責任さ、無関心さという課題が出てきてしまう
のですね。

お金が間に挟まれることで、対価のとれない組織は淘汰され、一つの
秩序になっています。組織や人が対価を意識することは、お金のもつ
悪い部分を補って、あまりあります。

しかし、暮らしには、そもそも、単一目的がなく、むだこそが豊かさなので、
対価は意識しない方がよいのも事実です。
それぞれが、それぞれの価値あると思うことを行い、また、それに対する
ありがとうのひとことが価値を生み出す。利というよりは美の世界ですね。

大きな社会では、人の統制が必要であることをみました。
しかし、人の統制は、お金に頼るしかないのでしょうか?

かならずしも、そうではないと思います。

■より実際の大きなお金のない国
実際には、より大きな世界でお金のいらない国は部分的に実現されています。
たとえば、日本の昔の大会社、より洗練された形で、現在の最先端の会社は
稼ぐだけ稼いで、給料はほぼ同じ、ただの社内サービスが満載という形ですね。

ただし、たとえば、
1.昔の日本の会社は出社時間・退社時間はきちんと定めています。
今のフレックス制度を見ていてもわかることですが、人間、自己を管理する
能力はそれほど高くないのです。
2.Googleでは、グローバルチームを編成しますが、能力だけでなく、それぞれの人の
評判(例:途中で手を抜いた。非協力的など)がシェアされています。
評判が悪くなると、仕事が誰からも来なくなり、いずらくなって、自分から会社を
去っていくそうです。

上記ふたつでは、金銭的対価を報酬に連結させないという意味で、お金のない国を
部分実現しながらも、外部からの管理や、評価の突きつけにより、コントロール
行っていることを見てとれます。


さて、上述の自己管理能力の一般的低さを踏まえつつ、議論を次に進めます。

■過剰消費を防ぎ、かつ人が幸せになるために。
資本主義というのは、物欲を刺激することに皆が、一生懸命に
なっている世界でもあります。
その中には、麻薬のように、明らかに、規制すべきものもありますが、
グレーのものが多いのです。
電車の革つり広告のなんと刺激の多いことでしょう。

消費すれば、経済が発展するの言うのは、実は、乱暴すぎる理論です。
実際は、麻薬と同様、人を疲弊させ、生産性を落とすものも多いと思うのです。

麻薬は法律で禁止していますが、麻薬のようなものをどこまで統制するべきか
は今後の一つの、課題と思います。

人はそんなに強くありません。実際、刺激の少ない国ではより、自分のことを
考えて豊かに生きられます。(インドでの4か月の体験からそう言えます。)
なお、これと物質的に豊かさは別のことです。今、物質的に豊かでない国で
刺激が少ないというだけで豊かな国で刺激が少ない国も全然あっておかしくないです。

私は、自分は望まないのに、お金を使ってしまっていると80%の人が、感じる
ものに関する宣伝行為を規制し、さらに場合によっては、猟銃と同様、免許制に
すれば、過剰消費や物欲が減って、より豊かになれるのではと思っています。
より、はっきりと、言ってしまえば、ゴシップ紙やポルノは、誰も積極的に
買うことを望んでおらず、買わされているだけなのです。
ギャンブルも同様です。

貧乏な社会が資本主義に巻き込まれて、なぜ、貧困な社会になるのか?
麻薬やTVなどで、物欲を激しく刺激されるからですよね。
つまり物欲の刺激こそが元凶と感じるのです。

一方、文明の便利さとゆとり、なにより、知識を得られる自由さは
享受すべきものですよね。

某MLへの連続投稿から 3

XXXです。


下記を含めた、フェアトレードの分野で私が希望を感じているのは、
プライベートブランドの興隆です。

プライベートブランドフェアトレードの考え方は非常に相性が
いいと思います。

大規模な販売チャネルを持っているところが、卸を中抜きし、
プライベートブランドを行ってこそ、取引先の長期育成が
ビジネス的な価値を持ってきます。


ヨーロッパではフェアトレードの取引が増えていますが、
これは、大部分が、コーヒー豆などの生活用品のプライベートブランドです。

また、プライベートブランド式のフェアトレードの成功例などを見てみると、
もともと、フェアトレード的な売りだし方と関係なく、供給先の
高付加価値化、育成に努め、現地との良好なWin-Winの関係を
築いていたところに、フェアトレードという皮をかぶせただけというところが
それなりに多かったりします。


LOHASにしろ、フェアトレードにしろ、XXXXさんがおっしゃっているように、
結局は大量消費を誘発しているだけという例は、かなりあると思っています。
事業主がどういう想いをもっているにせよ、ビジネスモデルとして、
問題があれば、消費者の想い、消費者の落したお金は、物流費などに消え、
ほとんど、現地に行き渡らないでしょう。

想いだけではどうにもならないことは、たくさんあります。
正しいモデルは、真剣に考え、考え抜いて、尚足りないほど、大切な
概念と思います。


XXXXXX

某MLへの連続投稿から 2

興味深いコメントをありがとうございます。

せっかくコメントに対してコメントをいただきましたので、もう少し、
思ったことを書かせていただこうと思います。


また、今回まだコメントされていない、あるいは普段コメントされていない、
多くの他の方々のコメントを楽しみにしております。


マズローの考えていた自己実現や欲求について

マズローは、欲求について、本当に丁寧に考察していらっしゃるようですね。
今度、下記の本でもを読んでもっとよく勉強してみたいと思っています。
人間性の心理学』モチベーションとパーソナリティ
A.H.マズロー著 小口忠彦訳 産能大学出版部


自己実現という言葉は、曲解されてしまっていると思います。
もっとも、多い誤解は下記のようなものです。
>自己実現の基本的な定義は
>・好きなことをやって
>・自立ができ(暮らしていく収入が得られ)
>・他者(社会)から評価されること。
>ボランティアは、自己実現というのとは違うよね。
http://piza.2ch.net/log/volunteer/kako/957/957028968.html

ランナーを目指して頑張っている若者が、明日はトラックにひかれて
キャリアをうばわれてしまうこともある世の中、すべての人間が最後は、
知識も体の自由も奪われ、死んでいく世の中で、自己実現という言葉は
そんな人にとっても最後まで光り輝く言葉であったのではないでしょうか。

また、そもそも、自己の実現といいますが、自己などというものを人間が
知りうると考えるのが傲慢であると私は思います。自分の知りうる
自己に対するこだわり、執着を捨てたところに、自己実現があるのでは
ないかと思います。

マズローの後年の欲求についての考え方の変化は、もしかしたら、「夜と霧」の著者
フランクルの考え方に近くなっているということはあるのでしょうか?


>多くの人は人生を「自分がしたいことをしてゆく場」と捉えてしまっている。
>このような「私のやりたいことをするのが人生だ」という人生観(欲望中心の価値観)
>に対し、フランクルは「私がなすべきこと、使命を実現してゆくのが人生だ」という価値観
>へと転換しているのである。

WikiPediaの「人生の意義」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3


夜と霧には、衣食住だけでなくすべての尊厳さえを奪われたドイツの強制収容所
での生活の中、フランクルが仲間と夕日を眺め、美しさに心奪われる場面があります。

人間はいかなる状況でも「こころの世界」、「内面的な世界」を失うことがないと
いうこと、どんなに最悪の状況でも「その状況に対する態度を決める自由」だけは
決して失われないということに、多くの人が勇気を与えられた本だと思います。

XXX様は、マザーテレサの例をあげておられましたね。


■欲求について
さて、話はずいぶんそれましたが、前回の、私のメールの内容についてです。

「より高次の欲求を追及するようになった人を見て、他人は成熟した人間と見る」
と考えれば、私の書いた内容は、マズローの考えと変わらない、言葉遊びでしょうか?

いわゆる「欲」というと、何となく負のイメージとくっついているような感覚が
あるから、「欲を追求する」という言葉に抵抗を感じることもあるかもしれないが、
人間的成熟や、愛といったものは、より高次の欲求であると、そういうことなのでしょうか?


「愛とは動詞である」との名言を書いたのは、スコット・ペックですが、
わたしたちは、どんなに最悪の状況でも「その状況に対する態度を決める自由」だけは
決して失われません。ブッタも考察しているように、人は激情に駆られる不自由はあるで
しょうけれど、しかし、その激情にとらわれるかどうか、感情に執着するかどうかを
決める自由が人にはあるわけです。

私は、マズローを否定したいわけでは毛頭なく、XXX様、他の方の議論に異論を
はさみたいわけでもなく、このテーマにおいて、欲求(Needs)に
もとづいて、議論を展開するのか、その必要はかならずしもないことを確認したかったのです。

つまり、何らかの行動を行うにあたって、(人間的成熟を追求する)欲求(Needs)が
あるかどうか、あるいは、自己利益(=財産や評判、自尊心、愛情を含む)が
図られるかどうか、はたまた、脳内麻薬が分泌されるかどうかは、どうでも
いいではないか、という確認です。


仏教やキリスト教などで、過去、求道者が実践した修行とは、自己利益に依存しないために、
体のほか、何も持たないことであったのではないかと思っています。
同列にはとてもあげられませんが、私も現在のシェアする生活の中で、個人所有物を
減らすことがどれだけ人を自由にするか、日々体感しています。

また、XXXXで私が学んだ一番大切なことは、自分の利益にかかわらず、自分が善いと思った
ことを追求することで、はじめは、私を含め、XXXXX賞を目指し狙っていたチーム
メンバ一人ひとりが、最終的にはそんなことはどうでもよくなり、会社や外部の評価
というものから、真に解放される体験です。
マズローが、自我(自尊)の欲求(Esteem)の中にあげているSelf-Esteemという感覚ですね。


なお、XX様のおっしゃるように導入部のマズローの扱いが乱暴で誤解を招く表記であったことを
謝罪いたします。


■真善美の普遍性とその社会や人との結びつきについて
こちらについても、導入として、書き方が乱暴に過ぎたことをまず謝罪したいと思います。
一度は理論物理や数学の研究を目指した私にとって真理の探究は大変価値のある行為ですし、
XXX様のおっしゃることは同意、共感できます。そして、おっしゃるように善や美についても、
絶対的な原則、つまり真理があると思います。

私が書いたように、人間の美においても、礼儀作法やファッション、理想とされる体つきは、文化によって
これほどまで…と言いたくなるほど変わるのも、単に、美というのが、物質的なものではなく、
人や社会との結びつきの中にあるのでしょう。しかし、XXX様が言及されているように、
その美しい結びつき方には、時代を超えた原則、法則があるように思います。

ただし、善や美の実現において、その共同体のニュアンスの理解が必須になると私は思うのです。
建造物一つとっても、その共同体の中において、他の建造物と調和してこそ美しいのだと思います。
虫の鳴き声一つとっても、人や社会との結びつきの中でこそ、これを美しいもの、風流なものと
とらえられるのだと思います。

ですから、原則、法則だけとりだせば、無味乾燥なものになってしまいますね。
XXXさんもそう考えておられると思いますが、人生は、特定の社会や特定の人との結びつきの中で、
原則、法則を学んでいく場であると、思います。だからこそ、不完全なこの世の中で、
時に不完全な権威(会社、他)に仕え、奉仕し、また、身近な少数の人を大切にすることに
尊い価値があるのだと思っています。


■善と普遍性、善とその人の生きる社会について
ここでは、善についても、美と同様に、普遍性、そして、その人の生きる社会との
関係性についてもうすこし、書いていきたいと思います。

私のバイブルである「7つの習慣」では、普遍的で時間を超越した「原則」が世の中にはあること、
小手先のテクニックではなく、人格の大切さを繰り返し説いています。公正さ、誠実、正直、
奉仕、貢献、可能性、忍耐、犠牲、勇気などなど、善について、XXXさんのおっしゃる通り、
普遍的な真理があることは、明らかです。

一方で、善に対して、その具現化についても普遍性を求めた人は、古代より、社会生活を
送るにあたって、何が善いことなのか、悩んできたように思います。
具体的な行為については、その人の生きる社会の中で、何が善いかが決まってくると思います。
たとえば、聖書でも、ローマ人の手紙 1 (パウロ)にてこのような悩みに言及しています。
なかなか、印象深いので私の好きな一節をを引用し、この考察を終えたいと思います。


私個人は、主イエスの権威に基づいて、はっきり確信しています。 偶像に供えた肉を
食べることは悪くありません。 しかし、それを悪いと信じている人がいるなら、悪い
ことは避けるべきですから、その人は食べてはいけません。 兄弟が、あなたの食べる
物のことで心を痛めているのに、そのまま平気でいるとしたら、愛によって行動して
いるとは言えません。 あなたの食べる物のことで人を滅ぼしてはなりません。 その人
のためにも、キリスト様は死なれたのです。たとい自分の行為は正しいとわかっていても、
人の批判の的になるようなことをしてはなりません。 なぜなら、私たちクリスチャンに
とって大切なのは、何を食べるか何を飲むかではなく、正しさと、平安と、聖霊様から
来る喜びとに、満ちあふれているかどうかだからです。 このようにキリスト様に仕えてこそ、
神様に喜ばれ、また、人々にも喜ばれるのです。 こうして、教会内の調和を目指し、
互いに助け合って成長するように努めなさい


■人間的成熟と真善美
私は、XXXXさんの真善美を感じ取れるようになることが人間的な成熟であるとの
考え方は、私と相容れるものではないですよね。

良心の声という言葉がありますが、なにが、善いことなのか、なにが
真実か、感覚の麻痺がなくなれば自然に感じるようになるのでは。
また、世界を愛し、一日、一日をいとおしむようになれば、
日々の暮らしの美しさに目がいきます。
世界が灰色になったり、世界に色が戻ったり、私もそんな体験を
しました。

自分自身への執着をなくすこと、より素直になることで、
自己をよりよく実現する、世界とは不思議なところです。


しかし、悲しいことに、この概念も、自己実現同様、誤解されていますね。
高尚さを装って、一方的な道徳観、一方的な美感覚、一方的なパラダイム
押しつけようとする人に利用されてしまっているのですね。

某MLへの連続投稿から1

こんにちは。

今年の夏は、伊豆大島に自動車免許の取得に行っておりました。
名前も出てきたことですし(笑)、久々に投稿させていただきたいと思います。

マズローに関連する議論、興味深く、拝見しておりました。
長文となってしまいますが、3点思ったことを、書かせていただきたいと思います。



■人間的成熟の追求を根本に据えてみる

マズローの話は、面白いのですが、これ以上議論を進めるには、
人は欲を追求する生き物であるという前提を外して、視点を広げてみるのも
よいのではないかと思いました。

そこで、一例として人間は、人間的成熟を追求する生き物であるという説を
展開してみたいと思います。

* * *
私は、以下の2点から、人間は、人間的成熟を追求する生き物であると思います。

(1)歴史的見地
第一に、歴史的にみて、どのような宗教においても、人の目的として
人間的に成熟していくことを人生の目的に据えています。
イスラム教、ユダヤ教キリスト教は人と神、人と人との正しい関係性を
追及しています。ヒンディー教、仏教は、人が涅槃にいたる道を追求しています。

このように歴史的には、人は人間的に成熟することを追及して、人生を生きてきたのであり、
欲を追求する生き物であるということを、(少数意見ではなく)当たり前のようにとらえるように
なったのは、近代になってからのことではないでしょうか?


(2)愛情の見地
第二に、人は愛する人に対して、欲を満たすことではなく、人間的な成熟を望んでいます。

あなたはパートナーや子供など最愛の人間が欲を満たすことを望んで、そばにいるでしょうか?
そうではなく、その人の精神的、人間的な成熟を願いながらそばにいるのではないでしょうか?

自分が愛する人に望むこと、それは、多くの人間が多くの人間に望むこと、そして、自分自身にも
自分自身を愛してくれる人から望み願われていることでもあるのです。


このように、人間的成熟という考え方を根本に置くことで、無私の追求というような
考え方も、おかしな議論抜きで、しっくりと議論の俎上にあげることができます。


■牧口の創価教育論を再評価してみる。

では、人間的な成熟と欲はどのように結び付くのか、考えて直してみたいと思います。

牧口といえば、創価学会創立者として、知られますが、それゆえに、試みられることも
少ないと思いますが、なかなか面白い考察を行っています。

牧口は、従来の3価値である真善美の中で、真理と善、美は次元の違うものだとします。
なぜなら、善や美は人と人、人と社会の関係性の中で、初めて、その価値を計れるもの
だからです。(科学哲学的な見解からは、真理も相対的なものだとの主張があるでしょうが、
やはり、人と世界・パラダイムとの関係性という面が強く、人と社会との関係性は
ずっと弱いと思います。)
牧口は、このように考えた上で、善と美に、どうように、人と人、人と社会との関係性の中に成り立つ
価値である利を加え、利、善、美の3価値の創造こそが、人間の幸福(=欲望の充足)であるとしています。

また、その人の所属する社会において、利、善、美の3価値を創造できる教育が教育のあるべき姿で
あるとし、創価教育論という体系を立ち上げようと試みました。

これは、私にとっては、非常に、納得のいく考え方です。皆様どうでしょうか?

利というものに引っ掛かる方もいると思います。しかし、無私の考え方と利は別のものです。
たとえ、無私の心を目指していたとしても、自分にかかわる周囲の方に、利の価値創造を行えること
時として大変重要になってきます。

ちなみに、善は、社会全体にとっての利であるとしています。



■美は生活の中に(続:牧口の創価教育論を再評価してみる。)
利、善、美の三価値の中の美的価値とは何か、牧口は、これは、人の心や体を休めるものとしています。
つまり、だれか偉い人や学者がこれが美しいと決めたものが美ではなく、絶対的なものでもありません。
たとえば、帰ってきたときに、「おかえり」と笑顔であいさつする子供、友人宅で受けたおいしい
お茶のおもてなし、このようなものが美的な価値の創造なのです。

人は、休息が必要な生き物です。機械に油が必要なように、美的な価値は人にも社会にも必要なものでしょう。

私は、今回の議論で、美を皆様が大切にされていることに、とてもうれしくなりました。
私も、大切にしていきたいと思っています。しかし、芸術家が創造し、一方的に提供できるものではなく、
生活の中にこそ、あるのではないかと思います。

このように考えてみると、人を幸せにし、人の人間的な成熟をより進めるためには、
「社会革命」ではなく、「人間革命」が必要なのではないか。このような視点を牧口は持っていたと
思われます。

人間一人ひとりが変わっていくこと、これはどう成し遂げられるのか…、一人ひとりが
本当に大切なものを大切にし、人として、周囲の人とともに、成熟し、暮らしの中で、
利、善、美の3価値を創造していくことにあるのではないかと思います。
まさに、プロではなく、素人の、市民ひとりひとりの力が大切なわけですね。



長文になりました。お読みいただいた方、どうもありがとうございました。
それでは。