某MLへの連続投稿から 2

興味深いコメントをありがとうございます。

せっかくコメントに対してコメントをいただきましたので、もう少し、
思ったことを書かせていただこうと思います。


また、今回まだコメントされていない、あるいは普段コメントされていない、
多くの他の方々のコメントを楽しみにしております。


マズローの考えていた自己実現や欲求について

マズローは、欲求について、本当に丁寧に考察していらっしゃるようですね。
今度、下記の本でもを読んでもっとよく勉強してみたいと思っています。
人間性の心理学』モチベーションとパーソナリティ
A.H.マズロー著 小口忠彦訳 産能大学出版部


自己実現という言葉は、曲解されてしまっていると思います。
もっとも、多い誤解は下記のようなものです。
>自己実現の基本的な定義は
>・好きなことをやって
>・自立ができ(暮らしていく収入が得られ)
>・他者(社会)から評価されること。
>ボランティアは、自己実現というのとは違うよね。
http://piza.2ch.net/log/volunteer/kako/957/957028968.html

ランナーを目指して頑張っている若者が、明日はトラックにひかれて
キャリアをうばわれてしまうこともある世の中、すべての人間が最後は、
知識も体の自由も奪われ、死んでいく世の中で、自己実現という言葉は
そんな人にとっても最後まで光り輝く言葉であったのではないでしょうか。

また、そもそも、自己の実現といいますが、自己などというものを人間が
知りうると考えるのが傲慢であると私は思います。自分の知りうる
自己に対するこだわり、執着を捨てたところに、自己実現があるのでは
ないかと思います。

マズローの後年の欲求についての考え方の変化は、もしかしたら、「夜と霧」の著者
フランクルの考え方に近くなっているということはあるのでしょうか?


>多くの人は人生を「自分がしたいことをしてゆく場」と捉えてしまっている。
>このような「私のやりたいことをするのが人生だ」という人生観(欲望中心の価値観)
>に対し、フランクルは「私がなすべきこと、使命を実現してゆくのが人生だ」という価値観
>へと転換しているのである。

WikiPediaの「人生の意義」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3


夜と霧には、衣食住だけでなくすべての尊厳さえを奪われたドイツの強制収容所
での生活の中、フランクルが仲間と夕日を眺め、美しさに心奪われる場面があります。

人間はいかなる状況でも「こころの世界」、「内面的な世界」を失うことがないと
いうこと、どんなに最悪の状況でも「その状況に対する態度を決める自由」だけは
決して失われないということに、多くの人が勇気を与えられた本だと思います。

XXX様は、マザーテレサの例をあげておられましたね。


■欲求について
さて、話はずいぶんそれましたが、前回の、私のメールの内容についてです。

「より高次の欲求を追及するようになった人を見て、他人は成熟した人間と見る」
と考えれば、私の書いた内容は、マズローの考えと変わらない、言葉遊びでしょうか?

いわゆる「欲」というと、何となく負のイメージとくっついているような感覚が
あるから、「欲を追求する」という言葉に抵抗を感じることもあるかもしれないが、
人間的成熟や、愛といったものは、より高次の欲求であると、そういうことなのでしょうか?


「愛とは動詞である」との名言を書いたのは、スコット・ペックですが、
わたしたちは、どんなに最悪の状況でも「その状況に対する態度を決める自由」だけは
決して失われません。ブッタも考察しているように、人は激情に駆られる不自由はあるで
しょうけれど、しかし、その激情にとらわれるかどうか、感情に執着するかどうかを
決める自由が人にはあるわけです。

私は、マズローを否定したいわけでは毛頭なく、XXX様、他の方の議論に異論を
はさみたいわけでもなく、このテーマにおいて、欲求(Needs)に
もとづいて、議論を展開するのか、その必要はかならずしもないことを確認したかったのです。

つまり、何らかの行動を行うにあたって、(人間的成熟を追求する)欲求(Needs)が
あるかどうか、あるいは、自己利益(=財産や評判、自尊心、愛情を含む)が
図られるかどうか、はたまた、脳内麻薬が分泌されるかどうかは、どうでも
いいではないか、という確認です。


仏教やキリスト教などで、過去、求道者が実践した修行とは、自己利益に依存しないために、
体のほか、何も持たないことであったのではないかと思っています。
同列にはとてもあげられませんが、私も現在のシェアする生活の中で、個人所有物を
減らすことがどれだけ人を自由にするか、日々体感しています。

また、XXXXで私が学んだ一番大切なことは、自分の利益にかかわらず、自分が善いと思った
ことを追求することで、はじめは、私を含め、XXXXX賞を目指し狙っていたチーム
メンバ一人ひとりが、最終的にはそんなことはどうでもよくなり、会社や外部の評価
というものから、真に解放される体験です。
マズローが、自我(自尊)の欲求(Esteem)の中にあげているSelf-Esteemという感覚ですね。


なお、XX様のおっしゃるように導入部のマズローの扱いが乱暴で誤解を招く表記であったことを
謝罪いたします。


■真善美の普遍性とその社会や人との結びつきについて
こちらについても、導入として、書き方が乱暴に過ぎたことをまず謝罪したいと思います。
一度は理論物理や数学の研究を目指した私にとって真理の探究は大変価値のある行為ですし、
XXX様のおっしゃることは同意、共感できます。そして、おっしゃるように善や美についても、
絶対的な原則、つまり真理があると思います。

私が書いたように、人間の美においても、礼儀作法やファッション、理想とされる体つきは、文化によって
これほどまで…と言いたくなるほど変わるのも、単に、美というのが、物質的なものではなく、
人や社会との結びつきの中にあるのでしょう。しかし、XXX様が言及されているように、
その美しい結びつき方には、時代を超えた原則、法則があるように思います。

ただし、善や美の実現において、その共同体のニュアンスの理解が必須になると私は思うのです。
建造物一つとっても、その共同体の中において、他の建造物と調和してこそ美しいのだと思います。
虫の鳴き声一つとっても、人や社会との結びつきの中でこそ、これを美しいもの、風流なものと
とらえられるのだと思います。

ですから、原則、法則だけとりだせば、無味乾燥なものになってしまいますね。
XXXさんもそう考えておられると思いますが、人生は、特定の社会や特定の人との結びつきの中で、
原則、法則を学んでいく場であると、思います。だからこそ、不完全なこの世の中で、
時に不完全な権威(会社、他)に仕え、奉仕し、また、身近な少数の人を大切にすることに
尊い価値があるのだと思っています。


■善と普遍性、善とその人の生きる社会について
ここでは、善についても、美と同様に、普遍性、そして、その人の生きる社会との
関係性についてもうすこし、書いていきたいと思います。

私のバイブルである「7つの習慣」では、普遍的で時間を超越した「原則」が世の中にはあること、
小手先のテクニックではなく、人格の大切さを繰り返し説いています。公正さ、誠実、正直、
奉仕、貢献、可能性、忍耐、犠牲、勇気などなど、善について、XXXさんのおっしゃる通り、
普遍的な真理があることは、明らかです。

一方で、善に対して、その具現化についても普遍性を求めた人は、古代より、社会生活を
送るにあたって、何が善いことなのか、悩んできたように思います。
具体的な行為については、その人の生きる社会の中で、何が善いかが決まってくると思います。
たとえば、聖書でも、ローマ人の手紙 1 (パウロ)にてこのような悩みに言及しています。
なかなか、印象深いので私の好きな一節をを引用し、この考察を終えたいと思います。


私個人は、主イエスの権威に基づいて、はっきり確信しています。 偶像に供えた肉を
食べることは悪くありません。 しかし、それを悪いと信じている人がいるなら、悪い
ことは避けるべきですから、その人は食べてはいけません。 兄弟が、あなたの食べる
物のことで心を痛めているのに、そのまま平気でいるとしたら、愛によって行動して
いるとは言えません。 あなたの食べる物のことで人を滅ぼしてはなりません。 その人
のためにも、キリスト様は死なれたのです。たとい自分の行為は正しいとわかっていても、
人の批判の的になるようなことをしてはなりません。 なぜなら、私たちクリスチャンに
とって大切なのは、何を食べるか何を飲むかではなく、正しさと、平安と、聖霊様から
来る喜びとに、満ちあふれているかどうかだからです。 このようにキリスト様に仕えてこそ、
神様に喜ばれ、また、人々にも喜ばれるのです。 こうして、教会内の調和を目指し、
互いに助け合って成長するように努めなさい


■人間的成熟と真善美
私は、XXXXさんの真善美を感じ取れるようになることが人間的な成熟であるとの
考え方は、私と相容れるものではないですよね。

良心の声という言葉がありますが、なにが、善いことなのか、なにが
真実か、感覚の麻痺がなくなれば自然に感じるようになるのでは。
また、世界を愛し、一日、一日をいとおしむようになれば、
日々の暮らしの美しさに目がいきます。
世界が灰色になったり、世界に色が戻ったり、私もそんな体験を
しました。

自分自身への執着をなくすこと、より素直になることで、
自己をよりよく実現する、世界とは不思議なところです。


しかし、悲しいことに、この概念も、自己実現同様、誤解されていますね。
高尚さを装って、一方的な道徳観、一方的な美感覚、一方的なパラダイム
押しつけようとする人に利用されてしまっているのですね。